持続可能な未来を目指す:テクノロジーと社会的責任の再考

テクノロジーと社会的責任についての私の立場

私はデータサイエンスを仕事とし、AIやDXを職業としている。しかし、私は、イーロン・マスクやマーク・アンドリーセンのような者達とは全く、道を違えるつもりだ。勿論、利用可能な範囲では奴らの成果を援用はするが奴らの思想とはまったく相いれない。

星暁雄氏とテクノロジーの追求

職業人生を通して、ずーっとテック業界を追いかけてきた。デジタルテクノロジーは世界を良くする。インターネットとオープンソースソフトウェアは世界の公共財。ムーアの法則は楽観的な未来予測を現実にする——そのように考えていた。2010年代の半ば、楽観的な見方を変える必要を感じた。いらい、新しい思考とことばを求めて、あがき続けている。ひとまずたどりついた思考が「ITと人権」。IT企業の社会的影響力が大きくなり、デジタルテクノロジーが人を害するケースが出てきた。技術とビジネスだけでなく、人権を考える責任が出てきた。残念なことだが、シリコンバレーはまったく別の結論を見いだした。(続く

星 暁雄 (Akio Hoshi) (@akiohoshi.bsky.social) 2025-02-07T19:15:26.691Z

星暁雄氏ほどではないが、私もテクノロジーをずっと追いかけてきたし、追いかけるつもりでもある。しかし、もはや、イーロン・マスクやマーク・アンドリーセンのような者達は私の方角ではない。右傾化も加速主義も真っ平ごめんだ。

そして、星暁雄氏は彼らの思想的な脆弱性を突く、そう、私を支えているのは、大学での法学であったり、環境社会学、哲学である。社会的責任を無視した億万長者はもはや、私の敵対勢力だ。だいたい、68兆円などという巨大な個人資産を築いてもそれを使うのはほぼ不可能だ。故に、これは金の墓場にしかならない。当然、トリクルダウンもしない。テクノロジー自体には善悪はない、しかし、それを使う者は別だ。

技術は世界を変えるの終焉、それは明らかで、既にスケーリング則は鈍化し、モデルの巨大化が高度化には必ずしも結びつかないことは明らかだ。しかし、MRが次の花とはならなかった。恐らく、生成AIは便利な道具ではあっても、それでマーケットをさらに拡大というのは困難だ。少なくとも、投資家の求める売買ゲームのようなスケールは困難だ。

AIのスケーリング則の限界とその超克を目指す試みについては、以下の記事でも少し触れています。

LLMのスケールの限界は一部でしかありません、ビジネスの伸長自体が困難ですから。

環境限界と加速主義の問題

実際に、地球環境にはサイズの限界がある、効率的利他主義や加速主義論者の求めるようなペースで人類の生息域を増やすのは不可能だ。その前に地球環境の限界の方がやってくる。つまり、ITも古い産業のように地球環境の範囲内で持続的に事業をしていく必要性があるのは私も同意する。

  • 資源の枯渇:化石燃料や希少金属などの資源は有限であり、無尽蔵に利用することは不可能です。
  • 気候変動:温室効果ガスの増加による地球温暖化は、環境のバランスを崩し、生態系に深刻な影響を与えています。

まず、この二つは最初に認めなければならない、加速主義者や効率的利他主義はこれらの限界を無視する。彼らは数値にできないものを嫌うからね。でも、気候変動はもう数字に出てきているよね。

実際に、環境を無視している間にも、災害がマウライを直撃するような事態は起きているのです。これでも、まだ環境を否定しますか? 否定するでしょうね、長期主義者にとっては環境などどうでもいいのですから。

テクノオリガルヒには同意しない

しかし、テクノオリガルヒはそれを受け入れない。今までの加速的な発展の美酒が忘れられないのだ。それは不可能だ、フリーランチはとっくに失われたことに納得できないのだ。だから、彼らは環境や社会的使命は忘却し冒涜する。

でも、私は彼らには与しない、唾棄する。

技術の限界と持続可能な発展

技術は世界を変える力を持っていますが、その限界も明らかです。スケーリング則の鈍化やモデルの巨大化が必ずしも高度化に結びつかない現実が示しています。さらに、地球環境にはサイズの限界があり、持続可能な事業の必要性が高まっています。

結論

私は、テクノオリガルヒのような者達には与しません。彼らが環境や社会的使命を忘却し冒涜することは許されるべきではありません。私は、社会的責任を重視し、持続可能な未来を目指す道を選びます。

参考書籍

直近で読んだものでこの辺の参考にしている本のリストです。

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